走圏と掌法 



 先週、今週と先生が不在で、自主練習だった。自主練習だと人が少ない。ふだんの半分以下だった。

 今週は体育館で会場も広いのに、なぜみんな来ないんだろう。もちろん先生がいた方がいいが、私は自主練も好きである。何しろ、自分のペースで練習に集中できる。しかも、仲間がいるから一人の時より励みになって、量も質もずっと効率がよい。やらない手はないと思うのだが。

 ひと月ほど前に探掌の活架を学び、その二週間後に蓋掌の活架を学んだ。これは二年前に定架で学んだ技を移動しながら行うのだが、学ぶのはそれだけでなく、定架では二挙動で行っていた技を活架では一挙動で行うことが重要な眼目。

 移動するから活架なのかと思っていたが、定架でも左右に移動する。歩法の問題ではないのかもしれない。第1段階は動作を分けてしっかり行い、二年後にそれをひとつにまとめるのだろう。これを定、活と呼んでいるのかもしれない。

 一挙動で探掌、蓋掌を行うのはそれほど難しいと感じなかった。一挙動で行うやり方を学んだことにより定架での練習で感じていたぎこちなさが解消し、腰のひねりに頼らない、ナンバ的な力の出し方が理解できた。

 技をやっていて思うのは、八卦掌以前に練習してきたことがずいぶん役に立っている、ということ。探掌、蓋掌に関していえば、劈掛掌の基本や翻子拳をかじったことが役に立っている。擺歩するときに全身同時に出て行くのは八極拳の三盤合一と同じだし、太極拳で足の纏絲勁を練習したことも役に立っている。八極や形意拳で站椿をしてきたことも、当然財産になっている。走圏の練習ばかりでも何とかついて行けるのは、そうした経験のおかげだと思う。年をとってから始めた人は、走圏と掌法の両立になかなか時間がかかるだろうと思う。

 私はふだんの練習では走圏ばかりで、技の練習はほとんどしていない。走圏で疲れてしまって、技まで手が回らないのだ。技の練習は、思いついたときにお茶を濁す程度である。

 そのせいかこの活架探掌・蓋掌を練習すると、翌日にこたえる。次の日は一日だるくて眠いのだ。昨日も、夕方までろくに仕事ができなかった。不摂生が続いていたせいもあるのだが。

 走圏はけっこうよくなってきたと思う。今は、一歩一歩しっかりと沈めていくこと、腰を定めることを主眼にしている。上体の放鬆、左右差の解消もテーマかな。

 活架蓋掌の次は、馬歩での定架練習が待っているようだ。馬歩のまま、動かずに上体だけで技を行うのだ。二年半たってこのような技を練るところが、馬貴八卦のおもしろいところだ。気血を養いながら筋を練り、作り上げてきた腰腿をさらに練り上げる。そんな目的ではないかと思う。走圏で筋を養い、沈身ができているという前提で行う馬歩の練習は、初歩の段階で行うものとかなり意味が違ってくるようだ。それだけに、これまで何を積み上げてきたかが問われるのだろう。それにしても、カリキュラムの巧妙さには驚かされる。

 最近は走圏がおもしろくなってきた。走圏はそのまま道教の秘伝の練功法であり、内丹、練丹の秘法だと思う。また、易筋経そのものでもある。そうしたことが体感されてくると、技は枝葉にすぎないな、という気がしてくるのだ。走圏を中心に練習し、技は焦らずじっくり練っていこうという気になっている。