意を練る

 現在われわれが練習している孫詩先生の八卦掌は、おそらく程派である。孫先生は八卦掌を何種類か身につけているそうだが、その中でも今練習しているものは比較的形がはっきりしているものだそうだ。姜容樵伝はもっと流麗で、高級なのだそうである。


 そうはいっても、いま練習している八掌も、実に柔軟な動きである。これで打って人を倒すには相当な功夫が必要だな、と考えさせられる。


 威力のことを考えず、できるだけ肩に力を入れずに型をなぞっていると、いろいろと気づきがあった。


 このような柔らかい動きで力を伝えるとなると、「意」を使う以外にないんじゃないだろうか。柔軟に体を使いながら、意によって勁を通していく。やってみると、多少は通るようである。


 「意を練る」ということばを聞いたことがあるが、その意味は全然わからなかった。しかし、この八卦掌を練習していると、意を練るという意味が少し理解できる気がする。動きと意を合わせ、勁を練っていく。「意到気到力到」ということばがあるが、こういう意味ではないだろうか。


 遠藤先生の教室では、ときどき推手の練習を行う。あるとき、肩の力を抜いても相手の力を支えられることがわかった。肩という関節は、力を入れるという自覚がなくても必要な部分の筋肉を使って腕を支える機能があるのではないだろうか。自覚できない筋肉の使い方があって、これが事態を複雑にしているような気がするのである。


 肩に力を入れているという自覚がなくても、力を出せるということを学べるのが、推手の大きな利点だともう。このフィードバックがあるから、走圏やタントウで肩や腕を作ることができるのだと思う。


 肩の放鬆と意の使い方、これが最近のテーマである。