タントウと慢練、明勁

 昨日、今日とタントウをやってみた。八卦掌を始めて以来、タントウは全然やっていなかったのだが、三年四ヶ月ぶりにやってみたのである。

 穿掌の姿勢で立ってみる。含胸亀背、端腰、提肛、抓地。背中から腰まで、ゆるんでいながら隙なく張りつめるような感覚だ。そのまま三体式。なるほど、本来は形意拳もこうやるんだろうな、とか思いつつ、熊形。

 歩かずに立っているだけだと、細かいところまで注意できる。歩くために力が入り、整えきれていない部分がいくつかあったことがわかる。しかし、これは静止しているからできるのであって、歩けば崩れてしまうだろう、と感じる。つまり、こういう部分はタントウでしか作ることができないのかもしれない。静止して立っているだけでも鍛えられている部分があり、またこういう部分は静止して鍛える以外にないのだろう。

 最近思うのは、タントウだけでも足りないし、動く練習だけでも不足するということ。そして、動く練習にも二種類あるということ。

 タントウでしか作れないものが、確かにある。そして、武術とは動くものなので、もちろん動く練習が必要だ。そして両者をつなぐ慢練が意味を持ってくる。

 形意拳も、タントウと、発勁しながら打つ普通の練習の間に、各種の慢練が存在してもいいのではないかと思う。

 形意拳の祖先といわれる戴氏心意拳は、タントウがなく、慢練が中心。形意拳は、慢練がなくタントウと明勁の練習が中心。

 個人的には、隠すポイントが違ったのではないかと思う。戴氏はタントウと明勁を隠し、形意拳は慢練を隠した。妄想かもしれないのだが。

 同じ考え方で行くと、陳式と楊式でも隠し方が違ったのだと思う。陳式は慢練を隠し、楊式は明勁を隠した。これも妄想です。

 ただ、同じ傾向の武術を複数見ていくと、重視するポイントが違っていて、比較することで見えてくるものがあるんですね。