宦官・董海川

 同門のうふちゅん人さんが、blog八卦掌の歴史について書いておられる。今回は、董海川について考察されていた。

 董海川は本当に「護院総管」だったのか? と疑問を提示されている。私などはよく調べもせずそのまま信じていたが、今回、改めて手持ちの資料を調べてみた。

中国武術大辞典」(人民体育出版社1990年版)には、「粛親王より七品首領職を任じられた」とだけある。

中国武術人名辞典」(人民体育出版社1994年版)には、「粛王府護衛総領に任じられた」とある。

 ちなみに前者と後者はかなり編者の構成が違っていて、前者には八卦掌の研究で有名な康戈武氏の名前があった。

 これらの記述を読んでいると、董海川は武術と道家の功法を学び、大成してから北京に出て宮刑を受け、宦官となって王府に入ったことになっている。

 私はそのことにも疑問を感じている。

 当時宦官とは、農家の次男、三男坊といった食い詰めて家を継ぐ必要もない者が、少年のうちになるものだった。宦官となるために生殖器を切除することを「宮刑を受ける」といい、刑罰ではない。

 武術でも道家でも大成した者が、しかも少年ではない50過ぎの年齢で、果たして宦官になるだろうか? なったとして、王府に入れるのだろうか?

 これはまったく私の仮説なのだが、董海川は少年の頃に貧しさから宦官となり、王府に入った。そして王府の中で武術や道家の功法を学ぶ機会があり、懸命に修行した。その甲斐あって大成し、両者を融合して新たな一派、八卦掌を創始した……こう考えるのはどうだろうか。

 宦官の中にも武術家はいたようだし、宮廷や王府では、道士を招いて修養法を学んでいたようだ。走圏の元になったといわれる転天尊は北京近郊の道観にも伝わっていたようだし、宦官の中でも才覚のある者は学ぶチャンスはあったようだ。

 王府の内情や宦官の生活など、記録が残っていないことが多いが、私は以上の仮説が大きくまちがっていないのではないかと思うのである。

追記
 うふちゅん人さんの指摘により、董海川は北京にやってきたあと宮刑を受け、王府の宦官になったということが判明しました。墓誌にそうした記述があるとのこと。宦官についてこんな間違いをするとは汗顔の至りです。
 董海川の墓誌に関しては、正確な資料を集め、体系的に研究を進める必要がありますね。「功夫」のM氏は年に四回も中国に行くので、そのうちに行って写真を撮ってきてくれるでしょう。今も中国にいるはずなんだよね。