少則得、多則惑

 対練とは、二人で行う相対練習のことである。

 日本武道では対練が練習の中心を占めている。柔道、剣道、そして合気道などもそうだ。

 それに対して中国の武術は、一人で行う練習が中心だ。太極拳を始め、ほとんどの武術が基本や套路の練習を一生の間続ける。相対練習である対打や推手はあくまで補助である。

 私は中国武術を中心に練習してきたが、日本武道も少しは経験した。高校時代は日体大柔道部出身の先生にしごかれ、毎日全身がバラバラになりそうなほど鍛えられた。ただし一年しか続かなかったのだが。

 また、八光流柔術の道場に四年ほど通い、大東流合気柔術の道場にも一年ほど通った。

 個人練習が中心の中国武術と、相対練習が中心の日本武道。その両方が経験できたのは、非常によかったと今になって思う。どちらの練習に偏っても一長一短があり、やはりどちらも経験し、補い合っていくことが必要だと思う。

 「走圏によって功夫を養えば、複雑な技は必要なくなる」、そう李明貴先生は語る。昨日の講習会でも穿掌の用法を示してくださったが、まっすぐ掌を突き出すという単純な技が、圧倒的な功夫に支えられたときにどのような威力を発揮するか、見ていてよく理解できた。

 日本武道でも、対練は本来自分のレベルを試すものだったのではないだろうか。弱点を知り、課題を明らかにすることによって、個人的な鍛錬の方向を決めることができる。

 個人的な鍛錬の部分は、おそらく秘密にされているうちにそのほとんどが失われてしまったのだろう。そして相対練習が競技となり、スポーツとして競われるようになって、個人練習はウェイトトレーニングに置き換えられていった。

 昨日行われた精誠八卦会の講習会で、李明貴先生は対練を指導された。穿掌、単換掌、圧掌を二人組で行う。ほとんどが未経験者なので、細かい要領も力加減もわからない。まあ、やっているうちにわかるだろうと思って、深く考えずに目の前のことに集中するようにした。

 対練にはいろいろと学ぶことがある。一人練習ではわからなかったこと、できなかったことが、たくさん出てくるのだ。また、いろいろな相手と練習することにより、力の加減や技のコツを習得していくこともできる。とにかく人によって力の性質や反応が全然違うからだ。

 穿掌の場合、一人ではできていたことが相手が目の前にいただけでできなくなってしまったり、これまでやったきたことの癖が出てきてしまったり、いろいろとあった。とりあえず、穿掌を自分の中心から相手の中心に向かって出すこと、相手の顔に本当に当ててしまわないことをを心がけた。

 李先生は空手経験のあるガッチリした外国人を相手に穿掌を示されたが、地力のある相手に対してその穿掌は必ず中心を奪い、顔面の寸前まできれいに伸びていた。私もそれを目標に、自分の中心から相手の中心へまっすぐ軌道を描くように穿掌を行おうとしたが、どうしても相手の腕の重さによって弾き出されたり、弾き出されないために無意識に急いだりしてしまったりした。

 対練のよいところは、こうして相手の力強さやスピードを体験できるところである。これによって、自分の体がいかにできていないか、痛感するのである。

 八卦掌の場合は、こうして痛感した地力のなさを走圏によって強くしていくのである。それも足だけでなく、腰回り、背中、肩、首、腕とすべてを八卦掌の技にふさわしい形で作り上げていく。

 十年あまり走圏で鍛え上げた李先生の体は、本当に重くて力がありそうだった。ある人は「ゲッターロボ3号のようだ」と例えていた。ゲッターロボ3号とは下半身が戦車のようなキャタピラになっているロボットで、李先生の驚異的な安定性をそのように表現しているようである。

 そんな李先生が単換掌の対練を示すと、従来の八卦掌のイメージを覆すような重戦車ぶりである。低く腰を落とした馬歩でぶつかり合うこの対練は、八極対接を彷彿させる。八卦掌も、形意拳八極拳のように重厚で力強いものなのだと改めて思った。こんな重戦車のような功夫を持つ人が、走圏で鍛えた変幻自在の歩法で死角に入り、槍のような穿掌、大砲のような撞掌、竜巻のような蓋掌や反背捶を繰り出してくるのである。

 「少則得」「道、得一」。この日李先生が本当に言いたかったことは、こうしたことのようである。たくさん学んでもそれに惑わされず、少数のものに帰結し、ひとつのものを得よ。それは走圏であり、単換掌である……

 走圏と単換掌を知るために他の多くの技や練習法がある。横並びに多くの技法があるのではなく、帰って行くところがあるのが、八卦掌のよさなんでしょう。