なぜ念仏か その1



 先日知り合いのライターに取材を受けた。健康関係の団体機関誌に記事を載せてくれるそうだ。

 彼は私のblogを読んでくれており、書いてある内容全般に関していろいろと話題になった。

 そんな彼の言葉で印象に残っているのが、「なぜ念仏なのか」。

 彼も禅や密教については興味があるが、念仏のどこがよいのかわからないという。なんと彼は私が出入りしている本應寺まで行って、勤行に参加したそうだ。その実行力には驚いた。しかし、45分の念仏がやたらに長く感じられ、どこがいいのか全然わからなかったそうだ。

 確かに、私自身も禅や密教に興味があり、本を読んだりかじってみたりした。それぞれ伝統があり、専念すれば高い境地に到達できるのだろうと思う。

 だが、禅や密教はプロでなければ修行はむずかしい。仕事をしながら片手間にできるようなものではなさそうだ。チベット仏教の世界でも、出家した僧のうち密教に進めるのは一割ほどで、残りは一生顕教を修行して過ごすそうである。「プロ中のプロ」だけが学び、修行できるのである。

 それまでの仏教が一般庶民に縁遠いものだったところへ、南無阿弥陀仏を唱えるだけ、という簡単至極な教えは広く庶民に受け入れられた。飢饉や戦乱で明日をも知れぬ生活を送っていた人々は、自分たちに実行可能な魂の救いを得る方法として飛びついたわけである。

 日本では明治時代まで飢饉が頻発し、娘を売りに出さねばならないような事態が数年に一度は起きていた。どうにもならない苦しい現実を目の前にして、魂の救いは切実な問題だったのである。