先日、霍永利先生の発勁を見たことと、また霍先生のような身法を使う心意拳家ばかりではないという意見を聞いて、少々思うことがあった。以下、あくまで私見ですがちと書いてみます。

 霍先生の発勁は、丹田を中心とした抖勁だと思う。それに対して、他の多くの心意拳家は整勁だといえるだろう。といっても、霍先生は整勁を練った延長上に抖勁に到達したのだと思うが。

 霍先生の発勁を見て、私は陳式太極拳二路の発勁を思い浮かべた。中心から放たれる、弾抖勁である。あるいは忽雷架の発勁も抖勁だ。

 それに対して、楊式太極拳はもっぱら整勁を練る。和式太極拳もしかり。外見にも威力のはっきりわかる抖勁ではなく、整勁を練り上げることによって暗勁の威力を高めるわけである。

 心意拳太極拳も、このように伝承者によって整勁を重視する方向と抖勁を重視する方向の二つに分かれる点がおもしろい。

 戴氏心意拳山西省の拳だが、河南の心意六合拳は陳家溝や少林寺とも近い。こうした練法や発勁が、お互いに影響し合っている可能性はかなり高いのではないかと思う。少林寺の心意派や河南の心意六合拳、陳家溝の太極拳などを見てきて、それらに共通する「整勁と抖勁」という二つの流れがあるような気がするのである。