霍永利先生の講習会を見て印象に残ったのは、その指導のていねいさ。講習会は一日中あるわけだが、ずっと生徒につきっきりで形を直し続ける。姿勢、動作の規格を厳密に正し続けるのだ。霍先生は、次のように語った。

 一般の教え方は、最初に少し教えて、後は放置してしまう。そしてときどきやらせて、正しいかどうかを口で言うだけだ。これではなかなか上達しない。

 私は最初に正しい姿勢、正しい軌道が身につくまで、ずっとそばについてやらせる。最初が肝心なのだ。

 放置しておくと、形は必ず崩れる。崩れたまま練習してしまうと、これが定着して今度は最初に学ぶときよりも直すのがむずかしくなってしまう。だから、私はある一定の時期はできるだけ長い時間そばについて練習させるのだ。まちがった動きはいくら練習しても害にしかならないからだ

 以上のような霍先生の教え方、考え方は教授法として実に優れていると思った。日本人はとかく練習しさえすればいいと思いがちだが、まちがった動作を練習して身につくのは根性と体力くらいのもので、正確な技からはかえって遠ざかってしまう。そのため、初心のうちはなるべく一人で練習させないのが霍先生の流儀なのだ。

 磨手の練習ができるようになるまでどのくらいかかるか、と尋ねたところ、「連続して10日間くらい教えることを三ヶ月に一度やっていけば、才能のある人なら8、9ヶ月で磨手の練習ができるようになる」と霍先生は答えてくれた。あの複雑で精妙な身法がそれくらいの期間でマスターできるとしたら、かなり効率が高いのではないだろうか。

 私は二年前の8月に八卦掌の講習を受けた。そして11月に体験取材で走圏の改正を受け、翌年2月に再び講習を受けた。その間ずっと一人で練習していたが、やはり進歩は遅かった。仕事の都合がついて昨年4月から教室に通えるようになったとき、半年ごとの講習会のみで身につけることのむずかしさを痛感した。

 二月の講習会で龍形走圏を習ったのだが、四月に教室に入門して痛感したのは、中途半端に習った龍形のせいで二月までできていたことがまったく崩れていたこと。しかもそのことに気づかないまま、二ヶ月間練習していたことにショックを受けた。直してもらえないこと、一人で練習することの怖さがよくわかったのだ。また、半年に一度の講習で正確な走圏を身につけた日本の先生の才能と努力にも改めて敬服した。自分にはとてもできないことだ。

 われわれは練習に際して、どうしても「工夫」してしまう。先生に教えられたことがうまくできず、ああでもない、こうでもないと試行錯誤する。試しているうちに最初に学んだことを忘れ、いつの間にか自分流に戻っていることに気づかない。そしてそのままひたすら「練習」するわけである。

 こうした「練習」の効率の悪さについて、この二年間で痛感した。だから霍先生の教え方が非常に新鮮に映ったし、また教授法や学習法について、考え直すきっかけとなった。学ぶことも教えることも、実にむずかしいものである。