粛親王府

 走圏の歩き方を少し変えた。筋肉痛になる場所がどうも人と違っているので、体重移動のやり方を見直したのだ。

 この問題は日中双方の先生がともに指摘しなかったので、おそらく外見からはわからない微妙な問題なのだろう。

 歩き方を変えたので、ここ一週間は新しい歩き方に慣れることを第一に練習した。やはり新しい歩き方の方が正しいようで、今までより腰や背中に効くようになった。これでちょっとは腰が強くなるかな。

 今までは歩き方に無理があったのか、走圏が少し楽になった。エネルギーの流れもよくなり、練習も楽しくなってきた。体重移動の方法は単換掌なども同じなので、技もすべて見直しである。だが、動きが合理的でスムースになったので、練習していても楽しい。

 話は変わるが、八卦掌は董海川以来、粛親王府で護院の総管を輩出してきたことは周知の通りである。粛親王とは清朝の皇族で、粛親王の住む館が粛親王府である。

 粛親王府は前門(チエンメン)あたりにあり、敷地約五千坪という広大な邸宅であった。清朝末期の義和団の乱の際には、有名な「北京の五十五日」の舞台のひとつとなった場所である。

 当時、北京在住の各国大使や外交官、その家族たちは義和団に包囲され、生命の危機にあった。西洋人たちは中国語もできず、北京の事情にも疎く、対策がとれない有様であった。

 しかし中国語に堪能で、北京に多くの知人をもっていた日本軍の柴五郎中佐は、旧知の粛親王に話をつけ、粛王府を借り受けてここに中国人キリスト教徒を避難させ、少数の日本軍の必死の働きによって外国人居住地域を防御する重要拠点である粛王府を義和団から守り通したのである。

 というわけで、粛親王府は日本とも多少の縁があったのだ。

 日本人だけでなく、八卦掌を練る中国人までが「董海川たちは紫禁城で皇帝の護衛を担当していた」、と誤解していることが多い。王府と皇帝を混同しているのである。

 前述したように、董海川以下の八卦一門は粛王府の護院に登用されていたのであって、紫禁城ではない。日本でいえば宮家の護衛をしていたのであって、皇居で天皇のSPを務めていたわけではないのである。

 紫禁城内でどんな武術家が皇帝を警護していたのか、それに関しては私も知らない。紫禁城を出てからの溥儀には、ご存じの通り霍殿閣以下の八極一門が警護の任についていた。また蒋介石以降、台湾の大統領を警護を担当したのも劉雲樵率いる八極拳を練習しているSPたちだった。

 「大内」とは、内裏や宮中、つまり紫禁城の内部という意味である。紫禁城ではなかったが、満州国皇帝台湾総統府の護衛にあたったのだから、八極拳は「大内」を名乗る資格があるといえるだろう。

 わが八卦門は確かに粛親王府の護院に採用されていたが、それは紫禁城とは違う。そこは誤解を避けるべきでしょう。

追記
 その後、尹派八卦掌の王尚智先生に取材したM氏より、尹福と清朝宮廷の関係を教えていただいた。それによると、王尚智先生の外祖父にあたる人物が宮廷に出入りする医師であり、尹福と知り合ってその功夫に驚き、宮廷に紹介したという。

 王家には宮廷で撮影された写真もあるそうで、尹福が紫禁城に入っていたことは事実なようだ。尹派八卦掌に限っては、「大内八卦掌」を名乗る資格があったのだ。王尚智先生に関しては今後も情報が入ってきそうなので、続報を待ちたい。