「ザ・スタンド」全五巻(スティーブン・キング著、深町眞理子訳、新潮文庫)読了。

 キングの大ファンということもないが、読むものがないので購入。考えてみると、キングの作品は八割方読んでいるのだが。

 クーンツとごっちゃになっているが、30代にはけっこう読んだ。ホラーが好きなわけではなく、恋愛ものも刑事・警察ものも好きではないので、クーンツやキングを読んでしまうのだ。

 「ザ・スタンド」は傑作らしいのだが、今の私は満足できなかった。きっと好みが変わってしまったんだろう。キングの作品でいちばん怖いと思ったのは、「霧」という中編だった。

 「ザ・スタンド」は、軍が秘密に開発していた細菌兵器が漏れ、人類のほとんどが滅亡してしまうというストーリー。多数の登場人物の人生を詳細に描き、絡み合わせることで五巻もの大作を飽きることなく読ませてしまう力はさすがである。物書きの端くれとして、これはすごいことだと思う。文章を書くのはとにかくパワーがいるからだ。

 キングの作品に多いのだが、この「ザ・スタンド」は「善と悪の戦い」がストーリーの骨子となっている。アメリカで生き残ったわずかな人々が、それぞれの夢に導かれてラスヴェガスかボールダーのどちらかの都市に向かう。

 「闇の男」の夢に惹かれたものはラスヴェガスへ、黒人の老婆「マザー・アバゲイル」に惹かれたものはボールダーに向かい、コミュニティを築いていく。

 「闇の男」は、純粋な悪である。悪魔が具現化した存在なのである。

 こうした「善と悪の戦い」というテーマは、スター・ウォーズ指輪物語などに見られるように、西洋ではかなり普遍的なものだ。いわゆる「キリスト教的世界観」なのだが、それがいかに根深いものなのか、この作品を読んで少しばかり感じることができた。

 西洋のヒーリングや能力開発も、こうしたキリスト教的世界観をもとにしているので、いかに「悪」を避け「善」に近づくかが、大きな問題となっている。

 私の学んだとあるヒーリングでは、病気や不幸、ネガティブな気持ちをすべて「悪」とし、そうした事態、考え方そのものを受け入れてはいけない、と教えていた。「悪」とはすなわち悪魔なのである、とも述べられていた。

 そして一方この世には善なる力も満ちており、その力だけに目を向け、取り入れよというわけである。

 それはそれで効果がある。だが、キングの本を読んでいても思うのだが、悪を否定し、善に目を向ければ向けるほど、逆に悪は純化し、力を強めてしまうような気がするのである。

 そういった点で、日本人は「スターウォーズ」や「ロード・オブ・ザ・リング」といった映画を見ても、キリスト教文化圏の人たちとは受け取り方が異なっているのではないか、とも思う。

 彼らほどには、日本人の「悪」は純化していないと思うのだ。

 それは幸福なことではないだろうか。キリスト教文化圏、おおざっぱにいってしまえば西洋の人たちは、善悪二元論の世界に住み、神にすがり、悪を恐れるあまり悪を限りなく純化しているのだ。

 そうでなければ、「ザ・スタンド」に出てくるような純粋な悪を描けないだろう。西洋人の心の中には、あのような純粋な悪、究極の悪魔が存在しているのだ。お気の毒なことだと思う。

 インドにも「マハーバーラタ」のような善悪の戦いの物語がある。しかし、血なまぐさい殺し合いの物語でも、しょせんはそれは「リーラ」であるという概念がある。

 リーラとは神の遊戯だ。ヒンドゥーの世界観は仏教と同じで、いわば「一切空」である。現実世界はすべて空であり、夢のようなものである。どんなにリアリティのある現実でも、すべては神の遊戯だというのだ。

 日本人は仏教的世界観を受け入れてきたので、この世のドラマが善悪の戦いであっても、しょせんは幻であるという真理をどこかで知っているのだろう。

 だから善悪、神と悪魔の問題もそれほど純化しないのだと考えられる。

 というわけで、キングの小説を読んでキリスト教世界観の一端をかいま見ることができました。

ザ・スタンド 1 (文春文庫)

ザ・スタンド 1 (文春文庫)