甲野善紀氏のホームページに掲載される氏のエッセイ「随感録」を愛読している。甲野氏の最近のテーマは丹田のようで、これは私も日頃考えていることなので、興味深く読んでいる。最新の文章で次のような内容があった。

身体の用法について、ごく最近考えていた全身での動き、無住心剣術的表現でいえば「よく調養すること」、夢想願立的なら「五体よく流通すること」の大切さにあらためて気づき、丹田は在ったとしても、ここを強調する事の問題を再び考えさせられた。


丹田を中心に動く」という考え方があり、また一方で「丹田から動くと遅い。全身一致であるべきだ」という意見もある。自分の中では、両者は統合されつつある。

丹田を中心に動く」というテーマで練習し始めたのは、10年ほど前のことだった。それは大東流の佐川幸義先生が「●●だ。●●から動くんだ」とおっしゃったのがきっかけとなっている。自分にはそれまで●●で動くという感覚がなかった。しかも佐川先生がそうした詳しい内容を教えてくださることは極めてまれだったので、強く印象に残ったのだ。

 私は準備運動として通背拳の基本を採用していたので、この動きを丹田を中心に行うように意識した。一日五分だけはやるように心がけ、三か月ほど経つと、丹田で上体を動かしている感覚が得られた。

 これをきっかけに手技が丹田を中心に動かせるようになり、また両肩の放鬆も理解できた。足の纏絲勁は陳氏太極拳の練習で身につけていたので、丹田を中心に上下を一致させることができるようになり、なにか大きなことに気づいたような気がしたものである。

 今ふりかえってみればこれはすべて基本的なことであり、どの門派でもそれぞれのやり方で身につくようにプログラムが作られているようである。ただ、教える側が本気であり、習う側も真剣であることが、習得の大前提であるが。

 さて、「丹田から動くと遅い。全身一致であるべきだ」という意見についてはどう考えるべきか。確かに丹田を先に動かし、あとから手足がついてくるような動きではタイムラグがある。こうした動きにはそれはそれで使いようもあると思うのだが、体幹が先に動くので限定されてくるのである。

 丹田が動くと同時に手足も動いている。理想としてはこの状態であり、これを整勁という。丹田を中心としていながら、丹田だけが独立しているわけではない。全身一致して動く。

 先日の戴氏心意拳セミナーで、M氏はこのあたりをうまく説明していた。まずは丹田の回転を学び、次第に全身を一致させていく。すると丹田の旋転と手足の旋転が同心円上で行われる。全身が丹田になるわけである。戴氏心意の場合は縦回転のみの身法なので、イメージが非常にわかりやすかった。

 「全身が拳」という境地は、要するに「全身が丹田」という意味なのだな、と納得。戴氏心意はすべての技を丹田功を元にして行うので、こうした境地を体得しやすいのかも。

 以上、発力の中心点としての丹田について考えてみた。ただ、さらに上のレベルになると、発力の中心点を移動させることもできるという。これは徐谷鳴氏の受け売りなのだが、全身がコントロールできるレベルになれば意識によって丹田(発力の中心点)を体外に移動させ、たとえば頭上や側面から力がやってくるように相手に感じさせることもできる。これは体験させてもらったが、実際にそう感じられた。このような方法を使って、相手に悟られずに体勢を崩してしまうのだと思われる。

 丹田にはこのほかにもチャクラのようなエネルギーのセンターとしての働きもあり、これはこれで実に深いテーマである。呼吸や重心といった問題も丹田を考える上で欠かせない。この点については、また少しずつ考察していこう。

[追記]
 一部気にする向きがあるようなので、伏せ字にしてみました。