昨日の続き。楊式太極や戴氏心意といった貴族の武術と、八卦や八極といった職業武術家の武術では練習の目的が違うのだと思う。かたや自らの心身を健康に保ち、趣味でやる武術。かたや負ければ仕事や命を失う、職業としての武術。違って当たり前である。

「どうせなら強い方がいいだろう。貴族の武術なんて軟弱だ」。20代くらいまでは私もそう考えていた。しかし今では問題はそう単純ではないこともわかってきた。

「がんばる」ことはいいことであると、われわれは思ってきた。私もそう思ってがんばってきたわけであるが、燃えつき症候群となって多いに苦労したのである。今自分を振り返って思うことは、精神力にも限界がある、ということだ。「心気」とでもいうのか、精神のエネルギーも消耗しすぎると元に戻らなくなるのだ。

 だから、戴氏心意拳で「疲れたりがんばったりするような練習は、絶対にしてはいけない」というのもよくわかるのである。心も体も、限界を越えれば伸びきったゴムのように元に戻らなくなってしまうからだ。

 太極拳では「養」という言葉をよく使う。これは心も体も「養」を行って、質を上げていくことだと思う。無理をしていれば一時的に高まったように見えても、年をとって返って衰えたりすることがある。これは体だけでなく、おそらく精神も同じだろう。

 貴族の武術と保[金票]の武術のどちらがいいのか。そう考えるとなかなかむずかしい問題があるのだ。内家拳といわれる八卦掌でさえ、練習のしかたを間違えると心身を損なう可能性があると思う。自分の体質、性格、求めるものをよく考え、さらには練習している内容を検討していく必要があるのだ。

 もちろん、週に一度教室でしか練習しない、という程度なら別に心配する必要はない。毎日ハードに追求する人にだけ問題となる。個人的には、練習時間が足りないという方が大いに問題なのだが。