松田隆智氏の葬儀

 昨日、松田氏の葬儀が西国立で行われた。ご遺体と対面することができたが、氏は非常に穏やかな表情をされていた。

 訃報を聞いた当日とその翌日、ずっと虚脱感に襲われていた。私にとって、氏はそれほど大きな存在だったのだな、と改めて実感した。

 氏の著作「太極拳入門」(サンポウブックス、絶版)を読んだのは中学二年生のとき。1972年である。それから書店で見かけるたびに氏の著作を探し、買い求めた。「中国拳法入門」「陳家太極拳入門」「謎の拳法を求めて」……続々と出版される力作の連続にすっかり魅了され、虜になっていったのであった。

 大学時代は中国武術研究会の活動に明け暮れ、卒業後は武道雑誌専門の出版社に勤務し、入社後二年半にして当時月刊だった「武術(うーしゅう)」の編集長を勤めることになってしまった。

 学生時代から教えを受けてはいたが、「武術」の編集長となってからは松田氏とはかなり密接におつきあいいただいた。週に一度は長電話をして様々な話題に花を咲かせ、仕事の打ち合わせでは駅近くの喫茶店で数時間もお話を聞いた。

 年に一度は松田氏らとともに中国へ行き、様々な武術、数多くの武術家に取材することができた。移動中の列車の中、滞在するホテルなどでは毎晩のように何時間も氏の話に耳を傾けた。一週間連続で毎晩何時間もケンカの実話を聞き続け、一度も同じ話がなかったのには驚嘆した。この人はいったいどれほどケンカをしてきたのか……それほどに氏は「戦って」きた人だったのである。

 松田氏は日本の古代史にも詳しかった。興味深さと、話についていけない悔しさで、私は関連書籍を読み漁ったこともあった。宗教や瞑想にも詳しく、後に私が師事した瞑想指導家の山田孝男氏についても松田氏に教えられた。松田氏はシルバ・メソッドを山田氏から学んでおり、その境地を高く評価しておられたのである。

 八光流柔術大東流合気柔術も、松田氏のことばがきっかけで始めた。八光流は氏も皆伝技まで学んでおり、折に触れそのすばらしさを語っていたのである。また、大東流の佐川先生のことを非常に尊敬しておられ、その名人技については何度も聞かせていただいた。私もぜひ佐川先生の技をこの目で見たい、大東流を少しでも学びたいと思い、佐川道場に入門させていただいたのである。

 思えば、13歳だった中学二年から福昌堂を退職する35歳まで、どっぷりと首まで松田隆智氏の影響を受けて生きていたのである。

 福昌堂を離れてからは氏との付き合いもなくなってしまったが、その後も私にとって大きな存在であり続けた。いかにエネルギッシュな松田氏も、そのうち年を取り、いつかはこの世を去る日が来るのだろう、とは考えていた。しかしそれは何年も先のことだろう、とも思っていたのだった。

 何年も会っていなくとも、私にとっては頑固親父のような存在として、圧倒的な存在感を感じ続けていた。その方が突然いなくなって、意識の奥底から虚脱感を感じたのだった。

 葬儀では、懐かしい方々に再会することができた。松田氏の直接の弟子たちも、初期から最近の方達まで、一堂に会していた。私は僧侶として出かけたので、古い知人たちに挨拶し、最近の自分を知ってもらう機会にもなった。

 私は武術に関しては才能も体力もなく多くを受け継ぐことはできなかったが、こうして振り返ってみると、スピリチュアルな探求の面でも影響を受けてきたことを思わざるを得ない。松田氏は真言宗の僧侶でもあり、後にはチベット仏教を本格的に修行されていた。私は浄土宗と方向性は多少異なるが、真理を求めるという点で、氏から何かを受け取ったと感じている。

 葬儀に参列できたことによって、松田氏の逝去を受け止め、自分なりに氏を送ることができた。それは本当によかったと思う。

 松田隆智氏はいろいろな意味で強烈な人だった。どういう縁でか、私と氏の人生はある時期、重なっていた。何度も中国へ連れて行っていただき、中部工業大学へは二人で寸勁の測定に行った。諸賞流和術の師範との対談のため、車で盛岡まで同行したこともあった。あのときも深夜までホテルで武術の話を聞かせてもらったのだった。

 多くを学び、影響を受け、そしてともに仕事をした。そんな松田氏が、行ってしまった。

 長い間ご苦労様でした。おつかれさまでした。ありがとうございました。

 松田先生、さようなら。