武術はどこまで語れるか

 前回の日記に関して質問をいただいた。長くなりそうなので、コメント欄ではなく、ここで返事を書かせていただくことにする。

 まずお断りしておきたいのは、このブログはあくまで私の個人的な記録であり、不特定多数の方がここに書かれたことを元に練習するということを想定していないということ。

 もちろん、参考になれば私としても書いた甲斐があるのだが、記録のために修行途中の中途半端な気づきや試論が中心であるし、また内容は私の学んでいる太我会の技術であって、他の団体で学んでいる方はそのまま取り入れたり信じ込んだりしないでほしいと思う。

 とくに馬貴派八卦掌とは走圏が共通するものの、その解釈や教え方は馬貴派と同じとは限らないので、注意していただきたいと思うわけである。

 以前も書いたが、太我会で練習している走圏は外見や要訣は馬貴派と共通するものの、その指導方法は遠藤靖彦先生の四十年近くにわたる練功体験の精華を盛り込んだもので、必ずしも馬貴派と一致しないのではないかと思う。

 腰を充実させる、気血を沈める、抓地といった注意に関しても、太我会では遠藤先生の経験から独特の工夫がなされていて、指導方法は馬貴派とかなり異なるのではないかと思う。

「勁を通す」ことについても同じで、これは遠藤先生が以前学んでいた先生より受けた指導が元になっている。

 その先生は「手に勁が通っていない」と指摘しただけだそうだが、それから遠藤先生は何年も工夫し、勁を通せるようになった。

 指導の際、我々も「指先まで勁を通すように」といわれるだけである。

 しかし、昔気質の武術家と違うところは、何度も手を取ってその力を体験させてくれる点だろう。それによって「勁が通る」とはどういうことか、体で知ることができ、その感覚を目標に練習できるのである。

 足に勁を通すのも同じで、実際に足の形を直してもらうのだが、そうすると足に感じる感覚がまるで変わってくるのである。それは股関節だったり、膝だったりするのだが、相手によって直すべきポイントが異なるので、○○を××すればよい、とは私ごときには簡単にいえないのである。

 足に勁を通すという問題も遠藤先生が自分で気づいたもので、誰かに教わったものではないようだ。いわば自得の要訣を、惜しみなく指導してくれているわけである。

 脱開については、私は馬貴派の講習会で学んだ記憶がある。馬貴派の会員の方は、講習会の場で説明を聞くのがいちばんいいのではないだろうか。馬貴派の要訣を私がここで詳述するのも、適当なことではないと思う。

 武術に関する文章を読んでいると、あっと声が出そうになるほどの気づきを与えられることがある。しかし、真意を誤解して信じ込んでしまって、遠回りをしてしまうことも少なくない。

 武術はやはり語るもの、読むものではなくて、実践するものだ。せっかく読んでくれる人がいるのだから、できるだけ役に立つ興味深いものを書こうとは思っているが、ことばにできるのはその一部だけであるということをご理解ください。