掤勁と龍形

 走圏は最近いろいろと感覚が変わってきて、新しい段階に入ったのを感じている。

 きっかけとしてはいくつか考えられる要素がある。

 まず、遠藤先生に股関節や膝の使い方について指導を受け、足に勁が通せるようになってきたこと。

 もう一つは、両肩の脱開が少し進歩し、「沈」の程度が深まったこと。また、提肛、端腰の力が多少ついてきて、丹田への集中の程度が高まってきたことも影響しているように思う。

 新しい感覚としては、両腿の充実が挙げられる。走圏の最中、または終わった後に、両足の付け根から足裏までが液体でいっぱいになった袋のように感じられることがあるのだ。

 「丹田に気血が満ちれば、やがてそれは足にも及んでくる」と先生は話していた。そんなことは遠い先のことと思っていたが、もう始まっているのかもしれない。

 熊形ではほかに、腋の下に興味深い感覚がある。肩の脱開がうまくいくと、腋の下から肋骨上部のあたりの筋が固く締まるのだ。力を入れているわけではなく、むしろゆるめればゆるめるほどその感覚は強くなるので、不思議に思っている。

 最近は龍形も積極的にやるようにしている。なぜかというと、おもしろくなってきたからだ。

 龍形では、両腕を一本につなぐように筋を鍛えるよう、先生は指導している。一度ていねいに龍形を直してもらったとき、それまで感じたことのない感覚が生じたことがあった。

 両腕を背中で支えている、そのとき、はっきりそう感じたのである。背中の表面には薄い筋肉の膜があって、構えた両腕の重さをその膜で支えている感覚がはっきりとあったのだ。この筋肉の膜は非常に薄いので、腕を上げているのがすごくつらかった。「筋が弱い」というのは、こういうことだと実感した。

 なるほど、こうやって練習していけばいいのか、そのときはそう思った。しかし後でやろうとしても、どうしてもその感覚は再現できないのである。それからはその感覚を目標に、工夫しながら練習しているのだが、なかなか再現できないでいる。

 肩の力に頼らず、背中・腰の筋で腕を支える。龍形の練功目的のひとつはこのあたりにある。ほかには、ねじりによって中盤側面部の筋を鍛えること。これも少しわかるようになってきた。

 龍形のようにねじって筋を作っていく練習法は、他の門派にも見ることができる。呉派太極拳のロウ膝拗歩、意拳の降龍トウ、形意拳や戴氏心意拳の龍形も同じような効果があるようだ。

 そして遠藤先生が龍形で教えようとしていることが、もうひとつある。それは指先まで勁を通すことだ。これがなかなか難しく、詳しく説明を受けても簡単にはできるようにならない。

 これは肩の脱開ができた上でさらに勁を通していくわけで、熊形である程度基礎を積み、龍形を本格的に練って二年くらいはかかるのではないだろうか。

 龍形は腕の勁や功を養う上で有効な練功法なのだが、その重要性をはっきり感じさせられる体験があった。

 太我会では月に一度、指導者研究会が開かれ、数人の古い会員を対象に遠藤先生から主に対練や散手を学んでいる。

 先日は散手において如何に推手の技術を生かすか、ということを教わった。

 太極拳では推手を重要視し、太極拳家には推手の名手も多い。しかし、推手の間合いで相手と勁の探り合いをするような局面は、実際の戦いにおいて極めて限られているのではないだろうか。

 そう考えて個人的にはあまり興味がなかったのだが、先生より太極拳の掤勁とその使い方を教わり、その重要性を思い知らされた。

 散手の際に、先生の構えを崩そうとしてその腕を押さえたり、触ろうとすると、瞬時にすごい力でこちらの手が弾き飛ばされる。

 また、対練でお互いの腕が交差したり、ぶつかったりすると、それはまるで鋼鉄のように硬くて重いのだ。

 ゆるんでいて勁が通るからなのだが、要するにこうした力が掤勁のようなのだ。

 私は構えを崩して入り込む技を使おうと思うのだが、何しろ触れたとたんに弾かれるのでそれどころではない。

 受けたとき、受けられたとき、どちらの場合でもこの掤勁があれば、非常に有利になってくる。何しろある程度功夫があれば、触れただけで相手が崩れるからだ。

 この力は、ゆっくり働かせることもできるし、鋭く使うこともできるようである。押された場合、力を使わずに相手の力を支える、あるいは、支えながら相手の力をそらすこともできる。

 遠藤先生はこれを腕だけでなく、体でもやって見せてくれた。胸のあたりを押させ、掤勁で支えて見せてくれたのだ。

 掤勁はやはりタントウや太極拳のようなゆっくりした動きで身につけるしかないようである。我々のメニューでは、やはり走圏ということになる。

 中でも龍形は掤勁の練習にもなっているのだと気づき、練習に新しい観点が持てるようになった。

 散手で掤勁をうまく使うには、触れた瞬間の反応が大切になってくる。その瞬間に相手の力の方向と強さを読みとり、適切な反応をしなくてはならないのだ。

 こういう観点で考えると、意拳がなぜあのような練習をするのかがよく理解できる。

 研究会のメンバーには意拳の経験者もいる。さすがに彼はこうした力の使い方に長けていて、しかも戦い慣れているので、押されっぱなしではあるが非常に勉強及び刺激になっている。

 散手や対練の練習で学んだり、気がついたりしたことはたくさんあって、じっくり練習したいテーマはたくさんある。形にとらわれない掤勁や発勁、歩法などもじっくり取り組みたいし、鉄砂掌のようなこともやりたい。しかしなかなか時間がとれないのが残念である。