わがカンフーライフ

 「大きく学んで、小さくまとめる」という太我会の方針のもと、今月15日には何度目かの「大きく学ぶ」講習会が行われた。

 午前十時から夕方四時半まで、お昼休みをはさんでハードな講習が続いた。

 内容は、内家か外家かと問われれば、純然たる外家拳である。いくら練習しても丹田に気が満ちてくることはない。馬歩、弓歩がはっきりし、動きは伸びやかで速ければ速いほどよく、姿勢は歩幅が広く低い。

 この年になって長拳系の武術をやるとは思わなかったが、八卦掌を通過して学び直すとまた理解も体で感じるものもまったく違っているから不思議だ。

 自分も最近までそうだったが、日本人には内家拳信仰とでもいうものがあると思う。

 形意・八卦・太極といった内家拳の方が高級で、これを極めれば外家拳は足元にも及ばない。外家拳は筋力に頼り、年をとったら衰えるが、内家拳は気の武術で年をとっても衰えない・・・・・

 この問題に関して私の最近の見解を簡単にまとめると・・・・・

 内家拳とは、外家拳的な武術をかなりの程度まで修行した人が、ある段階から内功を合わせて学びつつ、両者を融合させ、動きを小さくしていったもの。

 そんな風に考えている。さらに言えば、内功と拳術が融合しており、両者を同時に練ることができる、という点も特徴だろうか。

 さらに「内家」という言葉を道教と関連づければ、内功が道教由来のもの、という条件も加わってくるのかもしれない。

 遠藤先生は三十年以上も内家拳の専門家として人生をかけて追求してきたので、内家拳の長所と短所を知り尽くしている。その上で現在の練習体系を制定されたわけであるが、その真意はある程度の練功経験がある人でないと理解できないのかもしれない。

 こうして長拳系の武術を練習してみると、筋力やスタミナ、柔軟性といった基本的な体力が不足していることに嫌でも気づかされる。やはりメタボ体型ではついていけないのだ。体は動くうちに動かしておく。今できることは、今のうちにやっておく。これは非常に大切なことだと感じた。

 現在、広く行われている内家拳のスタイルは、名人のたどり着いた最終的なスタイルであることを認識しておく必要がある。名人たちが60歳を超えて編み出したスタイルと、彼らが少年時代、青年時代に練っていたスタイルはきっと同じではないと思うのだ。

 年をとってもできる小さく合理的な動き。それは最終形態なのだが、最終形態だけを最初から学んでそこへ至ることができるかどうか。まだまだ解明しなければならない問題が、そこにはあると思う

 さて、走圏について。

 先日、注意を受けて印象に残ったのは、ただ足に体重を乗せていってはいけない、ということ。必ず勁を通さなければいけない。これ自体はよくいわれてきたことなのだが、改めてどう違うのかを考えると、よくわかっていないことに気がついた。抽象的にしか理解できないのだ。

 要するに筋をどう働かせるかという問題なのだが、いまだにきちんとできないのである。

 もうひとつ、収臀をしっかり行う、ちょっと特殊な練習法を命じられた。これはなかなか効果があった。収臀、提肛は他を注意するとゆるみがちなのだが、この方法なら意識せずとも集中できる。

 龍形はまずますむずかしくなってくるし、単換掌もろくにできないことに気づかされる。まったく内家拳というのは、完成しないように作られた巨大なパズルのような気がしてくる。

 こうした精密な練功と、現実的な長拳系の武術を平行して練習できるということは、精神、肉体の両面でバランスをとるのに役立っている。特に両者の拳法が基本的な部分で共通しているので、なおさらだ。

 武器の練習もますますおもしろくなってきて、わがカンフーライフは充実しているのである。