年輪のように 



 昨日は李先生の八卦掌講習会に出席。

 教室での練習で翌日に激しく疲労することが続いていたのでちょっと緊張していたが、あまり消耗しなかったようだ。というのは今回は走圏が少なく、掌法の練習が多いからだと思う。掌法が多いと講習中は消耗するのだが、翌日にはあまり響かない。今の私は、走圏の方が翌日の消耗度が激しいのでちょうどよかったのかもしれない。

 練習は双換掌が中心だった。李先生の双換掌は三年前の夏の講習会で習って以来だ。改めて見ると、やはりさすがである。一動作一動作が正確で、内側から力がほとばしり出ている。ものすごく線が太い感じがする。

 この日印象に残ったのは、練習後に行った居酒屋でのお話。

 今回の来日前にも李先生は于志明先生に稽古をつけてもらったが、帯手で軽く吹っ飛ばされたという。あの功夫の塊のような李先生が、八十六歳の老人に功力で全く敵わないというのだ。

 これは技術ではなく功夫の問題だ、と李先生は力説された。

 私はたかだか十数年、于先生は四十年以上。練った年数が違う。走圏で練った筋の強さは樹木の年輪のようなもので、練れば練るほど厚く積み重なってゆく。遠藤と私は十年ほどの差しかないが、于先生と私は三十年の開きがある。だから、遠藤と私の差より、于先生と私の差の方がずっと大きいのだ……

 李先生はそのようにおっしゃられた。

 枯れた老人が経験と技で弟子を吹っ飛ばす。そんなイメージがあるが、馬貴派は違うようである。確かに、于志明・李明貴・遠藤靖彦の三代が並んで坐っている写真を見ると、それも納得がいく。

 例えば、精誠八卦会のサイトのこのページを見てもらいたい。左が遠藤先生、右が李先生、真ん中が于先生である。

 写真の端が切れていてよく見えないが、お尻の幅や丹田の大きさを比べてみよう。脚、股関節周り、臀部、腹回り、腰と、筋や気血の発達の違いが一目瞭然である。この写真のオリジナルはさらに左右が写っており、坐った状態での腰回りの幅は、于先生の方が李先生よりひと回り大きいのだった。于先生の方が小柄なのにもかかわらず、である。馬貴八卦では、こうした筋と気血の発達がそのまま実力の差となって現れるのだ。

 そしてたとえ七十歳を過ぎても、練功を続けている限り筋と気血は発達し続け、功夫は無限に上がっていくのである。

 昨日は帰りの電車の中で、李先生が脇の下の筋を触らせてくれた。乳首くらいの高さの、肋骨の上である。自分の体を触ってみてもそんなところに筋肉など微塵も感じられないが、李先生のその部分には1cm近い厚みの筋肉があった。

 また、首の後ろ、頸椎の部分にも骨を覆うように筋肉が発達しているのが外見からも明らかだった。

 筋だの気血だの、話としては頭に入れていたが、自身の変化、門友の変化、そして先生方の肉体を目の当たりにすることで、だんだんその実体が理解できるようになってきたのである。

 走圏によってなぜこのような発達が可能なのか。それは走圏に筋を発達させる要訣があること、腎を養うことによって気血の増大や筋骨の発達を促す方法があるからだと思う。

 欠点はとにかく時間がかかること、単調なことだろうか。一回で来なくなる人もいるくらいだ。しかし二年以上も続けた人が来なくなってしまうのは残念である。とにかくこれは細々とでも続けることが大切だと思う。やらなくなってしまっては意味がないのだ。サボりながらでもとにかくしがみついていく、私はこれを心がけています。