先週の教室では、印象に残ったことが二つ。

 まず、師匠のお言葉。「今練習していることを、必要以上に理解しようとしたり、分析しようとしたりしないでください。この練習は、皆さんが経験したことがないことをやろうとしています。経験したことがなく、皆さんの知識にもないものですから、理解しようとしない方がいいのです」

 細かい言い回しは忘れてしまったが、だいたいこのような意味だった。

 生半可な知識で理解したような気になる。これは現代人の悪い癖である。とくに私は仕事柄そのような傾向があるので、ちょっと反省させられた。

 師匠は30年以上のキャリアがある人で、武術ではチャンピオンにもなった。本当に真剣に追求し、学び、練習してきた人なのだが、それでも今学んでいる八卦掌は想像を超えた未知の部分が多いようだ。

 一年やっただけの私でも、武術観がひっくり返った部分がある。どうひっくり返ったか、それはちょっと書いただけではとても理解してもらえないと思う。いや、どんなに書いても理解はしてもらいないだろう。それは今世に出ているもの、これまで発表されたものとは根本的に異なっている部分があるからだ。

 人は全く概念にないものは、想像することもできないのだ。したがって、いくら説明しても理解してもらうことはできない。

 というわけで、われわれはとにかく師のいうことを信じて、いわれるままに練習するしかないのである。そして、理解できないままに単調な努力を続ける原動力は、やはり師の示す功夫である。それはなによりも説得力がある。

 理解しようとしない。わかったような気にならない。これがひとつの学びだった。

 もう一つ印象に残ったのは、「師の示す功夫」の一例だ。たまたま靠の説明になり、生徒を相手に実演した。両手で胸をガードしたところへ、軽く肩を当てる。生徒は吹っ飛んでいく。

 志願して自分もやってもらった。発勁などという大げさなものではなく、軽くポンと肩を当てるだけだ。しかし、ガードのために胸の上に重ねた両腕を通して、ドスン! とショックが。

 しばらく咳が止まらなかった。これを攻防の中で遠慮なくやられたら、おそらく血を吐くだろう。興味深いのは、師匠はおそらくふだん靠の練習などしていないことである。身体を練ることを中心にしているだけで、こうした応用ができてしまうのだ。

 これを見たのと、体験したことで、また一歩理解が深まった。この八卦掌は、ある意味非常に簡単なのである。むずかしい発勁の方法があるわけではなく、ただ走圏を中心とした練習で功夫を積む。功夫ができてしまえば、ただ打つだけである。

 それも、暗勁だからかえって簡単である。暗勁とは、明勁の延長上にあるむずかしい技術だと思っていたが、この八卦に関していえばそんなことはないようだ。ただ功夫を積んで打つだけ。

 などと説明するのも、すでに理解したような気になっているということだ。 早く身体でそれを表現したいものである。