さきほど「電車男」読了。恋っていいもんだな、と若かりし頃を思い出しました。この本、高一の娘が買ってきてあっという間に読破、続いて小五の娘も読んでましたが、いいんでしょうか。

 電車男ではないが、人が人を求める気持ちはなぜあんなにも強いのだろうか。私もどれほど家族に癒されていることか。しかし、仏教では独身を奨励し、結婚をタブーとしている。修行の妨げになる、と。

 自分の場合、たぶん一人では孤独に耐えきれないだろうと思う。結婚したのは27歳だったが、20歳から始めた一人暮らしも精神的にかなり限界に来ていた。

 親鸞という人は、僧だったが妻を娶り、当時としては異例の半僧半俗の生涯を送った。

 思うに、独身を貫いて修行に身を捧げることができるかどうかは、「カルマ」が熟しているかどうかによるのだと思う。カルマが熟していなければ、いくら意志が強くてもどこかで無理が出るのだと思う。遊び尽くし、放蕩を尽くした人が人生の無常を感じとるように、カルマが熟していないとわからないことがあるのだと思う。

 自分の場合はカルマは全然熟していないと感じる。しかし、これから先、一人になる可能性がないわけではない。熟年離婚に見舞われるかもしれないし、娘たちは結婚して出ていき、妻に先立たれるかもしれない。覚悟はしておかなくてはいけないのだ。

 というわけで突然話は変わるが、数息観について。数息観で検索してみると、かなりのヒット。どれも詳しく書かれている。専門家でもない自分がこれ以上付け加えることもないので、体験を少し書くことにする。

 前にも書いたが、11月の沈黙断食道場では一週間にわたって一日中勤行を続けた。45分の念仏と坐禅を交互に行い、私は意図的に腹式呼吸を行った。

 私の行った呼吸は、腹で吸って腹で吐く方法。胸は膨らませない。臍の下が膨らむようにすい、へこむように吐く。

 念仏の時は大きく息を吸い、できるだけの回数念仏を称える。調子がよいと一回の呼吸で8〜10回唱えられる。念仏で息を吐ききったら、他の人が1〜2回唱えている間に息を吸い、再び唱える。

 坐禅の時も、ゆっくり丹田まで息を吸い、またゆっくりと吐く。そしてそれを1セットとして「ひい、ふう、みい」と「とお」まで数える。そしてまた「ひい」から数える。

 数を数えることによって、雑念が生じてもまた呼吸を数えることに戻ることができる。雑念がひどいときには数を数えることすら忘れてしまうが、それでもまた数を数えることに戻る。数えながら物思いにとらわれていることに気づいたら、また呼吸を数える事に集中する。これを繰り返しているうちに次第に「三昧」に入れるようだ。

 これだけ呼吸法を行ったことは初めてだったが、やはり効果はあった。集中力が高まり、雑念が湧きにくくなった。ゆったりと落ち着いた気分になるのである。断食も効いていたと思うが。短い時間だが、何度か三昧に入った瞬間はあったと思う。

 この効果は帰ってからもしばらく続いた。寝ようとすると自然に呼吸が深く静かになり、異様に落ち着いた静かな気持ちになれるのだ。日を追うごとに元に戻ってしまったが。

 数息観について書けることはこの程度しかない。付け加えるとすれば、注意点。なるべく静かに呼吸し、呼吸音をさせないこと。スースーハーハーいわせると、摩擦で気が頭に上がってしまうのだ。

 それから、下腹を無理に膨らませないこと。痛くなることがあるので、穏やかに。あとは気長に、地道にやるしかない。座ることにも慣れなければいけないし。