イチローのバッティングは、武術的に見ても実におもしろい。前足に体重を全部移してしまう打法は「フロント・レッグ打法」というらしい。前足打法だ。

 これは形意拳でいうと崩拳だ。踏み込みの力を最大限に利用し、後ろ足に体重を残さない。イチローの足を見ていると、ちゃんと跟歩(こんぽ)している。

 跟歩というのは、後ろ足(軸足)がもとあった位置から前方へスライドすること。イチローは10cmほど跟歩している。つまり、イチローは他の選手より何cmか余分に踏み込み、全身で前へ出ることによってエネルギーを生み出しているのだ。

 この数cmの体重移動が、イチローのパワーのカギだ。イチローのスゥイングのスピードは異様なほど速いのだという。しかもゆっくりと振り出し、インパクトの直前に急激に速くなるそうだ。

 体重移動するということは、パワーは出るが副作用もある。野球には素人の私だが、ざっと次のような課題が浮かぶ。

1. 頭が動くのでボールが見にくくなる。
2. 体幹が大きく動くので、バットをボールに当てにくくなる。
3. 体を大きく動かすので、バットコントロールがむずかしくなる。
4. 前足の膝への負担が大きく、傷めやすい。

 これらの課題をすべてクリアして、利点だけを引き出しているのだからやはりイチローはすごい。しかも彼はただボールをバットに当てるだけでなく、ヒットにするために実に多くの操作をしているのだ。

 ボールのスピード、コース、回転を瞬時に見きわめる。
 ゴロを捕りにくく、また内野の頭を越えたらすぐに地面に落ちるようにトップスピンをかける。
 野手の空いている場所を選んで打ち返す。

 こんな高度なことをいくつも瞬時に行っているのだ。卓球やテニスじゃあるまいし、バットでトップスピンをかけるなんて、人間業じゃないと思う。

 彼は前足打法の威力を抑え、その分小さく振ってコントロールしやすくしているのだろう。後ろ足重心ではとてもボールが飛ばないような振り幅でも、前足打法ならパワーを集中できるからだ。中国武術には「寸勁」といって短い距離で相手を打ち倒す方法があるが、イチローのバッティングはそんな点でも武術的である。

 イチローのフォームを見ていて感じるのは、その柔らかさだ。両肩を完全にゆるめた上で、腰、腹、足を完全にコントロールしてバットを振る。この身体の統一のされ方は本当に芸術的だ。マリナーズの同僚が「軟体動物みたいだ」と表現していた。しかしその柔らかさは単にストレッチで作られるものではない。余分な力を使わず、他人が使わない、使えない小さな関節・筋肉まで適切に動かしているからそう見えるのだ。

 どんなトレーニングをしているのか、まったく興味深い選手である。