劈掛と八卦

先日、鉄掃把という劈掛拳の技を練習していたら、いろいろと気づきがあった。学生時代(1982年頃)に劉雲樵の劈掛掌の基本を少しだけ習ったのだが、その技と同じであることに気づいたのだ。


外見はずいぶん異なっているのだが、やっていることは同じだった。鉄掃把は用法そのままの形が技になっている。しかし、劉雲樵の劈掛掌では明確に馬歩をとり、様式化されているので用法がすぐにはわからないようになっているのだ。だから、一見して鉄掃把とは違う技に見える。

この動画の32秒あたりに出てくる技が、該当のもの。残念ながら名称は知らない。


この技では右手を水平に振り回しているが、振り回さずに右手を胸のすぐ前を通って左脇へ差し込むように行う技もある。そのやり方だと、下盤の形が少し異なるだけで、八卦の単換掌と同じ技になる。左手が上、右手が下になる点も、共通している。


他にも、劈掛拳(通備拳)の基本である単劈手と、八卦掌の穿掌、蓋掌の単操がよく似ていること、反背捶の単操とまったく同じものが劈掛拳にもあることなど、程派の八卦と劈掛は本当に共通点が多い(ちなみに、単換掌は尹派にはないようである)。

 

 飛檐走壁も実在した

飛檐走壁とは、壁に飛び上がり、屋根の上を走る軽功の一種。
武侠小説カンフー映画には必ず出てくる。
日本でいえば忍者みたいなものか?
三角飛びも、軽功の一種かも。
身の軽い人なら、かなりのことができるんだなあ。


うふちゅん人さんが以前ブログで紹介されてましたが、パルクール(フリーランニング)もすごい。これぞ現代の軽功って感じ。


それで思い出したのが、スティーブ・テラダ。
花拳繍腿もここまで行けば芸術だ。


 
 

 穿掌の対練

 今日(四日)は今年の初稽古。新しい内容としては、穿掌の対練に扣擺歩による転身を加えたものを習った。安定性や正確な軸の確立ができていないと、うまく対練ができない。対練をやると、何が足りないかがよくわかる。


 足の強さや軸もそうだが、対練で感じるのは、自分の中心がおろそかになって出した手の方へ意識や力が集まってしまうという欠点。手先にとらわれず、相手と接触しても中心を忘れず安定していたいと思う。同時に、変に力まないで勁を通して技を出せればいうことはないのだが。


 穿掌では、まっすぐ進みながら左右交互に行うものも練習。会場は広い体育館だったので、長い距離を走るように穿掌を行った。足の弱さ、功夫のなさを実感。こうした技は、通備拳とも共通する点がある。林伯原先生は中腰で全力疾走しながら両腕を風車のように振り回して技を行う。あのスピードと機動力があれば、ものすごく実戦的だと思う。


 昨年は新年早々足を痛め、3月いっぱいまで引きずった。その後も夏にまた足を痛め、10月には膝を痛め、それはまだ少し引きずっている。仕事もなかなか大変な状況で、練習に集中することがむずかしかった。


 仕事はあいかわらず大変な状況だが、今年はそれに負けず、武術の実力を上げていきたいと思っている。

 内家拳の外功

 今月は仕事が忙しくて、一度しか教室に行けなかった。その間に新しい練功法の指導もあったようで、悔しい限り。


 われわれの八卦掌は、孫詩先生のものを練習している。孫詩先生は練功を重んじていて、走圏やタントウ、武当山龍門派の気功といった内功の他に、「内家拳の外功」もそうとうやりこんでおられるようだ(孫先生は龍門派の正式伝人なので、そちらの方も興味があるところである)。


 孫先生によると、単なる腕立て、拳立てでは力むあまり眼圧が上がり、目によくないそうである。そのあたりも考慮された外功が、内家拳の外功というわけである。内功と外功を数十年にわたって練った孫先生の功夫はすさまじく、いろいろなエピソ−ドがあるようだ。それに関してはいずれ機会があったら書いてみよう。


 腕立て伏せに関しては、以前、伏臥功について書いた。昇級審査の課目にもなっている、腕立ての姿勢で静止する練功である。これは腕の角度や力の入れ方、足や腰の姿勢に細かい口伝があって、実に苦しい練功になっている。


 私の場合は、「上半身の力は使わない」といわれて練習してきたので、上半身に関してはほとんどなんの鍛錬もしてこなかった。だからこの伏臥功もきついことこの上ないし、なかなか継続して練習できていない。考えてみれば、使わないから力をつけなくていいというわけではないのだが。


 今回教えていただいたのは、静功ではなく動功だった。腕立て伏せをしながら、三種類の手型を交代していく。もちろん腕や姿勢、動かし方その他に要求がある。


 これを単なる腕立て伏せととるか、それとももっと深い意味を理解して練習するかで、効果はかなり違ってくると思う。


 佐川先生は腕立て伏せを重視して、何種類かのやり方で鍛錬されていたようだ。私はなぜ佐川先生が腕立て伏せのような単純な筋トレを重視するのかわからなかったが、要するに地面に対して発勁の練習をしているのではないかと考えるようになって、納得できた気がした。


 八卦掌の達人であった馬貴は、直立した姿勢から前方へ倒れ、両腕で地面に対して腕打を行い、その反動で元のように立ち上がったという。腕打とは手首を曲げた外側の固い部分で打つ技だ。


 本当にそんな芸当ができたのかどうかにわかに信じがたいが、そこまでやらなくても、腕立て伏せの要領で両手で地面に対して発勁と同じ力の使い方をすれば、全身を同時に鍛えることができるのである。

 肩の力を抜くこと、足腰の力で手技を打ち出すこと。これらは武術を学ぶ上で非常に重要なのだが、上半身の鍛錬と両立させることがなかなかむずかしい。学ぶ方も教える側も、頭を使わなくてはいい結果が得られない。自分が長い間学んできて、そして最近指導するようになって、そのことを痛感している。


 孫詩先生の出演したテレビ番組。その功夫の一端を見ることができる。




 

 伝統武術はガラ拳である?

 最近ガラケーなる言葉をよく聞くのでなんだろうと思っていたら、「ガラパゴス携帯」の略だそうだ。スマートフォンを「スマホ」と呼ぶのに対して、従来の日本の携帯電話を「ガラケー」と呼ぶようになったのである。


 日本のケータイは国際規格に合わせず独自に進化したので、ガラパゴス島の生物のように独特の機能を持つようになった。海外には通用しないが、日本人にとっては便利な機能がてんこ盛りなのである。


 先日、そういえば伝統武術もガラケーのような所があるな、と痛感した。ある部分は驚異的な進化・深化を果たしているのに、別な部分はまったく欠落していたりするのである。


 簡単に言えば、離れて戦う武術は接近戦に弱く、接近戦の得意な武術は離れて戦うのが苦手。それも、古い武術ほどそれが極端なのである。都会に出た系統は、欠点が補われていたりするのだが、源流ほどガラ拳の傾向が強かったりする。


 ガラ拳だからといって馬鹿にできないのだが、本人たちが気づいていないことも多く、また日本人も気づかずに習っていることも多い。


 この問題は簡単には語り尽くせないので、いずれ機会を見てまた書いてみたい。