探掌と、放鬆の課題

 昨夜、穿掌や探掌の打ち方についてひとつの気づきがあった。力の出し方ではなく、どう使うか、どう当てるかといった問題だ。

 探掌は八卦掌以外の武術にもよく見られる技で、かなり古くて一般的な手法のようである。高探馬という名前で少林拳や陳式太極拳に含まれているし、古くは明代の書『紀效新書』にも「探馬勢」という技が記載されているから、中国最古の技のひとつかもしれない。

 日本人には空手の「貫手」のイメージがあるから、どうしても指先から突き込む技と思ってしまう。そんなことをして指を痛めないのか、とかよっぽど指を鍛えないとつかえない、などと思ってしまう。

 私も探掌や穿掌の使い方についてなかなか納得がいかなかったが、昨夜は突然に納得できたのだった。要するに、指先で突き込むというより、チョンと触る感覚でいいのではないかと思うのだ。それがどれくらいの威力を持つかは功夫次第なのだが、達人でなくとも意外に効果はあると思うし、自分の指を痛めずに使えると思う。ただし、重要なのは狙う場所と、相手をどうしたいかという、目的意識だと思う。

 走圏では、ここ二ヶ月ほど上体の放鬆をもっと深めようと努力している。また、春から胃腸の調子が悪いので、走圏で治せないかと工夫中。上体の放鬆と足腰の強化、「沈」の追求は、これでよいというゴールはなく、ずっと追求し続けるものだと遠藤先生も常々語っておられる。

 しかし、先日はしっかり足を踏むという意識が足りないとお叱りを受けた。上体の放鬆に重点を置きすぎて、そちらがお留守になっているのである。もちろんそうなのだが、何年も「大力在腿」に集中してきた結果、上体の放鬆が一定以上に深まらないのも事実なので、現在は他をお留守にしてもそちらを追求しようと思っているわけである。

 遠藤先生は、太極拳に専念していたある時期、放鬆を深めるためだけに二、三年をかけたという。その間は箸より重いものを持たず、ひたすら力を抜くことを心がけた。その結果、思った通りにいつでも力を抜いて技を行うことができるようになったという。そして、「力を抜くというのは、そんなに簡単なことではない」というのだ。

 それを聞いて、自分も力を抜くことに専念しようと思ったのだが、なかなかうまくないかないなあ。