座る 



 先日練習の帰りに、先生にある人が太極拳の本について質問した。それはいろいろと難しいことが書いてある本だ。遠藤先生はこう答えた。
「さあねえ。時間は限られてるんだから、私は理論を考えているより、練習した方がいいと思うんですよ」

 思わず笑ってしまったのであった。

 李書文は文盲だったという。読めないので、毎日お線香をあげて拳譜を拝んでいたそうだ。内容を読んでわかった気になるより、そうして「自分には及びもつかないものすごく尊いもの」が存在すると思って謙虚な気持ちでいる方が、結果的には強くなれるのかもしれない。

 といいつつも、私もここになにがしかのことを書いている。しかしこれは理論を開陳するのが目的ではなくて、自分を整理するための覚え書きである。

 先日、ここに書いた文章を読み返してみた。昨年11月頃のものを読んでいて、自分も進歩していることを実感した。あの頃から2月いっぱいくらいまで、迷いのさなかにいたのだ。考えてみるとこの春に転機があって、一段階進歩できたようだ。楽になると、悩んでいたことを忘れてしまうのだな。

 読み返して勉強になる部分もあった。それは「座る」ということに関して。先生に姿勢を直されたとき、自分の後ろ足に「座る」という感覚が生じた、と書いてあった。

 すっかり忘れていた。現在、走圏を練習していて注意を受けるのは、左右差。腰が左に逃げるのと、右肩が上がることを注意するように、といわれている。

 私の左股関節は動きが硬く、右足が前の時にうまく姿勢が決まらないのである。「先生に直されたとき、左足に座る感覚が生じた」という文を読んで、感覚を思い出した。その状態を再現するように走圏をしているが、なかなかうまくいかない。だが、この感覚を目標に練習することが、左右差解消につながるのではないかと思っている。

 中国の先生たちは確かによく「座れ」という指導をしている。今回感じたのは、「座れ」という言葉に日中間に意味のずれがあるのではないか、ということ。「座る」というとき、中国の先生はおそらく「椅子に腰掛けるように」、と言おうとしているのだと思う。しかし、多くの日本人は地面にしゃがむことだと思っているのではないだろうか。

 意拳では、「高い椅子に腰掛けるように」という指導をすることがある。「座る」とは、本来こういう意味ではないだろうか。しゃがむと理解すると、腰を低くするだけになってしまうのだ。

 低い椅子にどっかりと座るのではなく、高めの椅子に浅く座る。これが「座(zuo)」の意味するところだと思うのである。

 しまった。理論を書いてしまった。これでは名人になれないなあ。