長女が見たがるので、NHK大河ドラマ義経」を見るようになった。日頃ドラマなんか全く見ないし、子供の頃から大河ドラマは見たことがなかった。しかし、これがなかなかおもしろい。

 原因のひとつに、私の育った須磨という土地が源平合戦の古戦場なので、題材が非常に身近に感じられることがある。

 義経が逆落としの奇襲で平家軍を混乱させた一ノ谷、平敦盛首塚がある須磨寺は実家のすぐ近所で、子供の頃からよく遊んだ。一ノ谷には、安徳天皇を祀った小さな神社もある。小学校の同級生には、義経一行を道案内した鷲尾三郎の子孫だという鷲尾という姓の女の子もいた。

 先々週の「義経」は、一ノ谷の戦いだった。歴史学者の間では、一ノ谷の位置について論争がある。義経が奇襲をかけたのは須磨区の西端にある現・一ノ谷町か、もっと東の鵯越か。地形的には、鵯越ではなだらかすぎ、一ノ谷では急峻すぎる、といわれているのだ。

 一ノ谷の北側にある鉢伏山や鉄拐山を子供の頃から走り回ってきた私としては、鵯越よりも一ノ谷説を信じたいところだ。

 一ノ谷から生田にかけて、北側はずっと六甲山脈が横たわっている。神戸へつながる大きな街道は、東からくる東海道、北の有馬方面から六甲山を越えてくる有馬街道、そして西からの山陽道

 平家としては、海と山にはさまれて守りやすい一ノ谷で西の山陽道を防ぎ、有馬街道の少し西で有馬街道東海道の両方から来る敵を防ごうとしたのではないかと思う。有馬街道より東に陣を置けば北、東の方向を防がねばならないが、もう少し西に陣を置けば東だけを考えればすむからだ。

 現在一ノ谷のあたりは、国道二号線とJR山陽本線山陽電鉄の線路が通るスペースしかない。当時なら、50mも陣を張れば街道を遮断できたはずだ。となると、壊滅の恐れがあるのは東側。もし東の守りが破れれば、一ノ谷まで攻め込まれる時間を稼いで海上に逃げる。そう算段して西の一ノ谷に本陣を敷いたのではないだろうか。

 また一ノ谷に入ることができれば、固い西の防備を内側から攻撃することができる。外側の塩屋口からは土肥に預けた本隊も攻めているから、防御戦を破って本隊と合流し、それから本陣を攻めたという可能性もある。

 
 義経は六甲山系の猟師道を抜けて少数の騎馬隊で北側から急襲し、混乱させた。「逆落とし」というのは一カ所の崖をいうのではなく、一ノ谷の北にある鉢伏山や鉄拐山の道なき道を苦労して越えたことを指しているのではないかと思う。あのあたりの山を馬で越えようとすれば、確かに「逆落とし」の箇所がいくつもあるのだ。

 番組ではあっという間に終わってしまったが、地元育ちの私は以上のようなことをああでもない、こうでもないと考えてしまったのであった。