週刊モーニング」に、日本のブルースマンを主人公にしたマンガがある。先週木曜日に出た号に、漁師をやっているブルースハープの名手と、その友人で自殺してしまったミュージシャンの話があった。
 自殺したミュージシャンは、一曲だけヒットを出して後は売れず、死を選ぶ。漁師のハープ吹きは「あいつは音楽を金に換えようとしていた。音楽業界はみなそうだ。だからオレは金と関係のないところで音楽をやる」といって漁師を選んだ。そして時折ライブでハープを披露するわけだ。

 自分の同年代の仕事仲間が、「どうもやる気が出ない。これは大きな問題だ。回りの同年代の奴はみんなそういってる。去年までは仕事をしていたのに、今年急にダメになった」などと言っている。
 私の場合はもう15年くらい前からそんな状態なので、「ほっほっほ。やっと君たちもわかってくれたか……」などど心の中で呟いているのだが。

 40代も半ばになると、「倦怠期」という言葉が実感を持ってくる。本来は夫婦関係に使う言葉なのだろうが、これは仕事にも当てはまるのではないだろうか。
 仕事には慣れきって、何も考えないでもできてしまう。新しいことを考えたり、やるのは苦痛。毎日同じことの繰り返し。だんだん若い頃のような体力、気力が衰える。

 好きで始めた仕事だったとしても、二十年以上もやっていれば飽きもするし、好みも変わる。いつの間にか仕事が「時間とエネルギーを金に換える」だけになっている。

 もちろん継続は大事なことだ。それから、年とともに仕事のやり方を変えることももちろん必要だ。そんなことはわかっているのだが、なんだかやる気がなくなったのもまた事実なのだ。

 漁師をしながらブルースを続ける。自分にはこんな生き方はできないだろう。自分の場合は好きなことを仕事にしたつもりだが、いつの間にか好きなんだか嫌いなんだか、楽しいのか辛いのか、わからなくなってしまった。

 先日、本應寺の品愚上人がこんなことを言っていた。「このモノが売れない時代に、モノを売ろうとするのは修羅の世界だよ」。

 確かに、なんとか少しでも部数を伸ばそうとあくせくする本作り、雑誌作りは修羅の所業だ。修羅とは、要するに争いの世界に生きる存在のことである。

 とはいっても、自分自身で信じているのは、「お金は後からついてくる」ということ。自分の好きなこと、得意なことにとことんこだわって追求していけば、必要なものは必ず与えられると思うのだ。
 お金はあくまでも物々交換に替わって採用されているシステムにすぎない。お金自体を目標にするのは本末転倒であり、ナンセンスではないだろうか。

 人生のモチベーションは、やはり喜びだと思う。楽しいから仕事をする。楽しそうだから、人が集まる。

 それが世間的にどれだけ報われるか、というのは自分自身でコントロールできる範囲を超えている。ある人はすぐに認められ、お金も手に入るかも知れない。ある人は生きているうちには世間的に成功しないかも知れない。ゴッホだってそうだった。

 だが、コントロールできないことに一喜一憂してもしかたがない。「今日食べるものと、今晩寝るところがあれば、それでヨシとする事ね」と、日木流奈くんも言っていた。

 食べるものと寝るところはとりあえずある。つまり、生かされている。それは、大いに感謝すべきことだと思うのだ。
 もちろん不満をいえばキリがない。大きな家に住みたいとか、もっと経済的な余裕が欲しいとか。
 だが、すべて満たされるということは、あり得ないことだ。「満たされる」ということ自体、「満たされない」という概念とセットになっている。どこまで行っても人間は不満を持つ。解決策は「足ることを知る」以外にないのだ。